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2011年4月 4日 (月)

福島原発人災事故!!本当のところは?その6

人間は歴史から学ぶことが多いのです。なかでも自然の痕跡は嘘つきません。

それを無視すると手痛い目にあいます。今回の原子力事故は、過去に無視してきたしっぺ返しなのです。原子力行政、東電などは過去を振り返ったら成り立たなくなることを恐れ、徹底的に過去を無視しました。

亡くなったか方は死にきれません。

今日は「津波にまつわる話」を紹介していきましょう。

今、ブログではいろいろな話を紹介してくれます。

自分は「稲むらの火」の小学国語教本写しを持っていて、思い出しました。Img_4086_r_2

日本には時々恐ろしいほどの津波が襲ってきたことを記憶しておくべきでしょう。岩沼の地権者さんには、昭和初期の津波のことや戦後のチリ地震での津波の話を聞いたことがあります。仙台バイパスの近くには、津波の記憶を刻んでいる波分神社があります。また本で知ったのでは、明治29年の三陸大津波があります。最大到達点が38mの地点もあり、数万人の死者を出したそうです。さらに名取の地権者さんに聞いた話では、大昔に貞観津波という巨大津波が名取を襲ったという古記録が清水峰神社にあるそうです。このように時々ではありますが巨大津波はあったのです。

「稲むらの火」という小説でとてもいい話

Img_4088_r 「稲村の火」の抜粋を記します。小説では主人公の名前が五兵衛となっています。
江戸時代の和歌山県の話。ある海辺の村で庄屋をやっている五兵衛は、長くてゆったりとした強い地震の揺れ方と唸るような地鳴りに恐怖した。
海を見ると波が沖へ沖へと引いていくではないか。みるみる海岸には広い砂原や黒い岩底が表れてきた。
「ただごとではない。大津波がやってくるに違いない。」
五兵衛は昔おじいさんから聞いた「地震の後に海が引いたときは大津波が来る。」ということを思い出したのです。

五兵衛は高台に家を構えていたため、この恐るべき海の変化をつぶさに観察することができました。
その日、村は秋のお祭りの日であり、ほとんどの村人は海辺のほうに集まっていました。
このままでは、村の400人が村ごと津波にさらわれてしまう。
とっさに五兵衛は家に駆け込み大きな松明を持って飛び出したのです。
そして、家の前の田んぼにあった刈り取ったばかりの稲むらのすべてに火をつけました。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」
孫がこれを見ていて、おじいさんが気が狂ってしまったと勘違いして泣き叫ぶありさまでした。

ところが海辺でこの火事を見ていた村人たちは、「あ、火事だ。庄屋さんの家だ。」と村人は急いで高台を目指して駆け上がるのでした。
全員が高台に上がってきたことを確認した直後、大津波が村を襲い、すべてを飲み込んでいきました。
村人全員は大津波に流され跡形もなくなってしまった村をただあきれて眺めるばかりでした。
稲むらの火は、風にあおられてさらに燃え上がり、夕闇に包まれたあたりを赤く照らしていたのでした。

この美しい小説は、ラフカディオ・ハーンすなわち小泉八雲が江戸時代のこの実話や明治三陸大津波を題材にして書き上げたものです。
しかし、実際はこの庄屋さんでありヤマサ醤油の会長でもあった浜口儀兵衛は、この後さらに素晴らしい行動をするのです。
津波が去った後に私財をなげうって大きな堤防を作りさらには村の復興にも力を尽くしたのです。
この村では今でもこの津波のあった日に「津波祭り」というのをやっていて注意を喚起することに努めているそうです。

稲村の火はなぜ消えたのか ?

この話は江戸時代末期に和歌山県で起きた実話を基に、子供用に作った物語です。作者は小泉八雲(ラフカディヲ・ハーン)。作者が外国人であったため、この美しい小説は日本だけでなくアメリカやヨーロッパの各国語に訳されて今も外国の子供たちが習っているそうです。しかしなぜか戦後の日本では、津波の危機管理にも役に立ち、しかも世界にも誇れるこの美しい小説を教科書から消してしまったようです。どうしてなんだろう。

戦後GHQ占領軍はこの素晴らしい小説を教科書から消してしまいました。

教科書から消されたものはたくさんあります。
軍国主義的なもの、国家主義的なもの、天皇陛下を讃えるもの、忠君愛国的なもの、日本の伝統文化のすごさ素晴らしを表現したもの、滅私奉公的なもの、自己犠牲の精神のあるもの、公徳心のあるもの、国家・地域へ恩返しをすることをたたえる内容、民主主義的でないもの、平等主義に反するもの、年上や位の高い人を讃えるもの、日本の偉人伝、例えば、二宮金次郎・楠正成・和気清麻呂・大村益次郎・大山巌・・・(たくさんあります。)

今回の大津波ではあまりにも多くの人がなくなりました。地震から津波までは30分ぐらいありましたが逃げなかった人。また第一波はわずか50cmぐらいしかなくて、それで終わりだろうと安心して戻った人が、一時間後に強烈な第二波にやられてしまった人もいます。一度逃げたが、通帳など大事なものを取りに家に戻り巻き込まれた人など様々います。
もしこの防災教育にも役立った「稲むらの火」が戦前同様教科書に採用されていたなら、多少なりとも「真っ先に逃げる」
「とにかく逃げる」という意識につながったかもしれません。

それよりもなによりも現政権の政治家たちは、GHQが意図した超民主主義的な教科書で習い、しかもその意図通りに歩んできた優等生たちです。
だから津波など「有事に備える。」という意識自体ないのです。国防の重要性が見えないのです。
そのため、麻生元総理が唱えた「100年、200年に一度あるかもしれない大水害に備えるためのスーパー堤防構想」に反対し否決しました。
「100年、200年にあるかどうかもわからない水害対策にお金使うって無駄じゃないでしょうか。」
さらには「コンクリートから人へ」などという甘い幻想にとらわれ、砂防ダムを造るのをやめ、もう一つのダムともいえる田んぼの整備をする「土地改良事業」を半分に減らし、国内流通の生命線である道路事業費を削ったため道路整備がままならなくなっているのです。
まさしく有事に備える、国防こそが最大の福祉ということが理解できないのです。
堤防なんかにお金使うより、こどもたちにお金配ったほうが喜ばれるじゃん。こんな発想なのです。
人のために必要なコンクリートを作りましょう。

《貞観地震》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87

●貞観地震とは

津波災害は繰り返す 陸奥国府を襲った貞観年津波

箕浦 幸治 みのうらこうじ
1949 年生まれ
現職:東北大学大学院理学研究科教授
国 際バイカル湖掘削計画研究企画委員長
専門:地質学および古生物学

●広域連動、想定せず 869年「貞観地震」タイプか

【東北・太平洋沿岸地震】
 今回のマグニチュード(M)8・8の地震は、岩手県沖から茨城県沖の震源域が連動したとみられ、専門家は「ここまで広い範囲で連動して起きるとは想定していなかった」と、研究や対策の対象にしていなかったと話す。869年に発生した「貞観地震」と震源域が近く、似たタイプの可能性があるという。
理科年表によると、貞観地震は三陸沖を震源とするM8・3の巨大地震。城郭などが無数に壊れ、津波が多賀城下を襲い、約千人が溺死した。古村孝志・東京大地震研究所教授によると、貞観地震の震源域と考えられる範囲は、今回の地震の発生場所に近い。
 古村教授によると、30数年周期で繰り返し発生すると想定されていた宮城県沖地震はM7・5クラス。今回はその約90倍のエネルギーだ。連動して起きる地震としては、東海、東南海、南海の研究が進められている。

●津波災害は繰り返す

 今から3500年前、エーゲ海で巨大な津波が発生し、これによる災害はクレタ文化圏に 大きな衝撃を与えたとされています。いくつもの文明が興亡した後の現在でも、それが土地 の言い伝えとなって残されています。我が国でも、各地に津波災害が伝承され、惨禍は教訓 として語り継がれています。陸奥国府に津波が襲来したとする9世紀後葉の記録が残されて おり、この歴史上の津波を、最先端の地球科学により解明することにしましょう。

●陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)

 3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」
 内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。
 この事件より120年前の天平21年(西暦749年)春、 今の小田郡湧谷で黄金が多量に出土し、辺境とされた陸奥は時の権力にとり一躍最重要の地域となりました。 以来この地では、黄金を求めた朝廷と先住民との間に軋轢が増し、 やがて抗争へと発展していきました。策謀と遺恨が対峙して各地で世情の不安が募るなか、 仙台湾の沖で発生した地震津波が襲来したのです。当時の朝廷が受けた衝撃の大きさは、 この災害の詳細な記録からも伺えます。
 被災した国府はどこにあったのでしょうか。貞観の地震津波に関する言い伝えや逸話などを各地で見聞しますが、その実体についての信頼に足る歴史的記述は意外に希です。正史の記録にある城下を陸奥多賀国府の館と読みとれるものの、その地理的位置に関しては諸説があります。これまで主流とされてきた現在の多賀城市とする説に対して、多くの歴史的記述を背景として異論を侍した渡邊偉夫氏は、岩沼の「武隈の館」をその場所とする解釈を提唱しています。
 現在ではそれぞれ仙台平野の北部と南部に位置しており、いずれにしても1100年ほど前に仙台平野に津波が押し寄せたことに変わりはありません。平野が氾濫して青海原が出現したとする記述は、膨大な量の海水の溯上により仙台平野が広範囲に水没した様子を暗示しています。
 この津波災害に関わる伝承・記録は、東北地方から房総半島にかけての太平洋沿岸の広い範囲に及んでおり、知られ得る限り最大級であったと考えられます。東北日本で近代的観測が始まって以来、最大級の津波の場合で、海岸より2㎞に満たない海水の陸上溯上距離です。歴史資料が示す平野の水没は、貞観津波が常識を越えてはるか内陸部まで溯上したことを示唆します。貞観の津波は、説明の及ばない自然現象なのでしょうか。
 海岸平野では急速な市街化が進み、海岸域にまで開発が及んでいます。 こうした状況にあって未曾有の津波襲来が予想されるならば、我々はその時期と規模を理解することが 急務であると認識しなければなりません。貞観津波の解明は、破局的自然現象としての津波の科学的理解 に貢献するのみならず、地域の防災上極めて重要となります。

●津波災害の痕跡

 北と南から流下する北上川・阿武隈川と奥羽脊梁山脈に起源する数条の河川による埋積作用によって、 仙台平野は作られました。良く知られていますように、伊達政宗の仙台開府以来、 平野の後背湿地をひたすら排水することにより、現在の広大な耕地が開拓されました。 記述にあるように仙台平野に貞観の津波が押し寄せていれば、年代論的に、 耕地の下に津波の溯上が痕跡として残されていることになります。
 この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数㎝の砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。
 最近、多賀城市埋蔵文化財調査センターにより、市川橋遺跡から9世紀後葉の大規模な津波災害 の跡が発掘されたと報じられました。この発見により、多賀の国府城下に貞観の津波が押し寄せて 大きな被害が発生した事実が、明らかとなりました。歴史上の津波災害の実態が学際的な研究を通 して解明される事例を、貞観の事件にみることができました。

●津波災害の再来

 津波発生の理工学的解析を今村文彦災害制御研究センター教授と共同で試み、貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。 相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです。 大きな津波が仙台湾沖で将来発生する可能性があるとして、 その時期は何時頃でしょうか。再来予測を可能にする科学的根拠を再び地質学に求めることができます。
 仙台平野の表層堆積物中に厚さ数㎝の砂層が3層確認され、1番上位は貞観の津波堆積物です。 他のいずれも、同様の起源を有し、津波の堆積物です。放射性炭素を用いて年代を測定したところ、 過去3000年間に3度、津波が溯上したと試算されました。これらのうち先史時代と推定される2つの津波は、 堆積物分布域の広がりから、規模が貞観津波に匹敵すると推察されます。
津波堆積物の周期性と堆積物年代測定結果から、津波による海水の溯上が800年から1100年に1度発生していると 推定されました。貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます。
 伝承や文献記録の内容が全て真実であるとは限りません。しかしながら、1100年余の時を経て語り継がれた 仙台平員長野での災害の発生は、幸運にも、津波の科学的研究を通してその正当性が実証されました。こうした 破壊的な災害には、数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。
 しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。 歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです。

《参考》

東北地方太平洋沖地震 西暦869年貞観地震に伴う津波の研究

平安の人が見た巨大津波を再現する-西暦869年貞観津波-  

             独立行政法人 産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター

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コメント

自然や機械は嘘をつきません。しかし、人は自分と組織の維持のためであれば何度でも嘘をつきます。まじめな技術者は嘘はつきませんが、組織の長となるとそうはいきません。 

以下は、福島原発事故の真相です。
福島原発事故の背景にあるのは、(1) 防潮堤の高さを決める時にチリ地震の津波の高さをベースにして余裕を取っただけであり、近海で起きた過去の巨大地震による津波の高さを計算で想定して決めていなかったこと、(2) 非常用母線の6.9kV開閉装置、非常用DGs、そしてバッテリをすべて同じ〈水がたまる)地下一階においた設計にしていたこと(PWRは一階)、(3) その地下一階に対する溢水対策が完全でなかったこと、(4) 送電線、鉄塔の崩壊による長期間の外部電源喪失など何も考えていなかったことにある。このことは、福島原発の安全審査に問題があったということであり、当時の通産省による安全審査とダブルチェックを行った原子力安全委員が産業界の方をかついただけで、いい加減であったということにつきる。米国ではハリケーンによる外部電源が主であるが、最少2時間、最大16時間喪失するとして予備電源、ケーブルの接続等のテストまで含めて対応できるようにしている。日本の電力会社と当時の通産省と原子力安全委員は、それを知りながら、日本では30分で外部電源は回復するからとして、必要な対策を命じてこなかった。

想定外だといっているのは間違い。歴代の通産省幹部と原子力安全委員は想定外だといって責任を逃れようとしている。
Defense-in-depthの思想は、多重故障の発生を想定しシビアアクシデント発生防止対策講じておくことであり、発生確率が小さいからと言って対策しなくてもいということではない。日本の規制当局の責任者はこのことを認識できていない。だから福島原発事故は起こるべくして起こった。

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