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2011年5月 8日 (日)

「今村恒明」という地震学者

ここに1冊のETVテキストがあります。

シリーズ歴史は眠らない 【地震列島・日本の教訓】 今年の1月4、11、18、25日に放映されたこのテキストが強調しているのは、過去の経験を風化させずに世代から世代へ伝えてゆく重要性です。

 過去に多大な犠牲を払った経験も世代が3代ほど進むと危機感が薄れてゆくので、文書だけではなく、口伝や定期的な活動によって伝えてゆく努力が不可欠であるということ、

 また、別の側面からは、科学的に解明されつつあるが、確定は困難な大地震や大津波について科学的知見も活用しながら、備えることの重要性を訴えています。

 この番組が終わって1ヵ月半の処で「東日本大震災」が発生したが、結局、この番組の訴えは活かされず、大惨事を招く結果となりました。

NHK教育「地震列島・日本の教訓」」

NHK地震列島・日本の教訓 ~第4回 耐震化への道~

http://blog.livedoor.jp/seisman-memo/archives/1663595.html
NHK地震列島・日本の教訓 ~第3回 君子未然に防ぐ~

http://blog.livedoor.jp/seisman-memo/archives/1655735.html
NHK地震列島・日本の教訓 ~第2回 震災復興のモデル~

http://blog.livedoor.jp/seisman-memo/archives/1650930.html
NHK地震列島・日本の教訓 ~第1回 過ちを後世に伝えよ~

http://blog.livedoor.jp/seisman-memo/archives/1648687.html

第3回は主に「戦前」に活躍した地震学者「今村恒明」に注目して、地震防災を考える回でした。

2011年1月20日 ... NHK地震列島・日本の教訓 ~第3回 君子未然に防ぐ~
本題に入る前にまずはこの動画をご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=C4lpIaSraPE&feature=player_embedded#at=37

2004年のスマトラ沖地震の際に撮られたビデオでして。津波の引き潮で干上がった海に魚を拾いに行った人が、その後の上げ潮に巻き込まれる姿を撮ったものです。
地震に対する無知が被害を生むという教訓を与えたい人にとって、このようなインパクトのあるビデオは(不謹慎ではありますが)思わず使いたくなるものです。

しかしさっきのような動画を見ると、『津波は引き潮で始まるんだ』という誤った認識を持ってしまう人がどうしても一定数出てきてしまう。

インパクトのあるもので強く押すと、予想外の形で強く引き戻されることがある。
地震分野の防災情報教育もそういうことを繰り返しつつ行われてきました。

雑誌で「防災の大切さ」を押しだそうとしたら新聞の曲解記事で大混乱となり「”地震予知”は禁句」となった関東大震災前関東大震災の18年前、大学助教授だった今村明恒氏は雑誌太陽に下記のような趣旨の記事を投稿します。
関東では50年以内に地震が起こる可能性が高く、そうなれば火災で大きな被害が出ると予想される。だから今から火災を意識した防災策を取り、減災に努めるべきだ。
今村氏としては、結論の「火災を意識した防災策」を訴えるためにこの記事を投稿したようです。
しかし、世間は「50年以内に地震が起こり大きな被害が出る」という部分にのみ注目し大騒ぎとなってしまった。
結局、地震学会は「今村氏のいう地震予知は信用できないもの」として問題を収束させ、以降日本の地震学会において”地震予知”はNGワードに近い扱いを受けるようになった。その影響は今も残っています。

教科書で「津波知識の大切さ」を押し出そうとしたら戦時教育に都合のよい部分のみが強調され、戦後には使われなくなった「稲むらの火」

【フックのブログ】福島原発人災事故!!本当のところは?その6…で紹介しました。

http://fry-to.air-nifty.com/captainhook/2011/04/post-7db7.html

関東大震災に向けての防災策を進められなかったことを悔やんだ今村氏は、研究のかたわら防災知識を広めるべく努力します。
そんな活動の甲斐あって、実話を元にしたとある物語が教科書に載せられることとなります。それが「稲むらの火」です。

今村氏をはじめとする地震学者は「”地震の後には津波が来る”という知識があれば、津波被害を減らすことができる」という教訓を伝えようと思い、この物語を教科書に載せたわけです。
しかしこの物語が載せられたのは、日本の戦時色が徐々に強まってきた1937年。
「他の村民のために自分の稲へ火をつける」という減私奉公の精神が強調され戦時教育の中で利用された。

戦後すぐ起こった南海地震の津波では、この話のおかげもあってか戦後の混乱期にもかかわらず津波被害は少なく済みました。
しかし戦後しばらくして「稲むらの火」は教科書から消えます。

長い周期で見れば「上げ潮に乗れてる」とは思うんだけど…戦後も同じような「押したり引いたり」が続いています。
それでも押すことをやめなかった人がいるからこそ今回のような教育番組が作られているわけで。成果の出にくいところに努力してくださる方々がいるのには頭が下がります。

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今村恒明という地震学者がたいへんおもしろい、癖のある人物なのです。彼のエピソードを紹介しましょう。

「今村の苦労」
 大騒動が起きた結果、今村に非難が集中しました。今村としては、地震に備えろと言うつもりで書いたのに、新聞にうまく利用されてしまったわけです。
 
 また、今村の著書『地震学』の出版社は、「今村の本を読んで地震に備えよう」とセンセーショナルなコピーで広告したものですから、今村は私利をはかるために浮説を唱えたと、世間で非難されました。さらに、友人からは、大ぼら吹きとあざけられました。
 
 このときは、事態の沈静化を図ろうとして、今村の上司である東京帝国大学・地震学主任教授の大森房吉が奮闘いたしました。
 
 大森は「学者は大騒ぎの元となるような言動は慎むべきだ」と今村を非難しました。もっとも、今村の論文が出た時点で、大森は特段の非難をしておりません。事態が緊迫してから、そう言ったのです。大森自身も、震災に備えて水道管を整備するよう、行政に訴えておりましたから。
 
 大森と今村は、本当に仲が悪かったようですね。年齢は大森が二歳上なだけでしたが、大森は教授で、今村は助教授。大森がいる限り、今村は万年助教授に甘んじるしかなかったのです。
 
 大森は「お嬢さん」と呼ばれるぐらい、おとなしく円満な人でしたが、かたや今村は、頑固で妥協を嫌い、ズケズケ物を言うタイプでした。
 
 この騒動で大ぼら吹きと嘲笑されたとき、今村は「俺が死んだ後、東京に大地震が起きたら、墓前に報告しろ」と奥さんに命じたそうですから、相当執念深い。
 
 
「今村の講演」
 この騒動以来、大森は地震対策の啓蒙のために、あちこちで講演を行っています。
 
 また、子供のころから正しい地震の知識を得る必要があると考え、小学校の教科書に地震の話を載せるよう、文部省に運動しております。
 
 しかし、当局は、教科書に入れる余地がないと、これを断りました。
 
 一計を案じた今村は、文部大臣が出席している会合で講演しました。
「ドリアンはうまいが臭いといった話まで教科書に載っているのに、地震を入れる余地はないというのはおかしい」

 これが受けて、拍手喝采です。結局、大臣の鶴の一声で、教科書に載ることになりました。

「大森との確執」
 今村と大森は学問でも、対立していました。

 今村は「大規模な津波は、海底の地殻変動によって起きる」と主張していました。これは、今では常識です。この前のスマトラ沖大津波もそうです。しかし、大森はその意見を、無理な仮定であると批判していました。
 
 大正4年には、房総半島に群発地震が起き、世間が動揺しました。このとき、大森は京都に出かけていたため、代わりに今村が新聞記者に「九分九厘安全だと思うが、火の元など用心するに越したことはない」と当然のことを述べたところ、意外な反響を呼び、野宿する者さえでました。
 
 帰ってきた大森は、今村を激しく責め、今村は躍起となって反論したそうです。

 「悲劇の大震災が起きる」
 こうして、二人の確執が続いていきましたが、それに終止符が打たれるときがやってきます。関東大震災――大正12年9月1日、死者・行方不明合わせて約14万人という未曾有の大惨事です。
 
 大森はこのとき、オーストラリアに出張していました。大森が出かける前に、今村は、「もし大地震が起きたら、いかがいたしますか」と大森に尋ねていたそうですから、今村の執念深さは相当です。
 
 大森は地震の報を聞いて、すぐ日本に戻りましたが、船上で重病に陥り、一ヵ月後に亡くなります。相当、ショックだったに違いありません。「自分の予想より60年早かった」と語っていたそうです。
 
 病院に面会にきた今村に、大森はこう語ったそうです。
「今度の震災につき、自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方はない。ただし、水道改良につき義務をはたしたことで、わずかに自らなぐさめている」

 今村はどんな気持ちで大森の言葉を聞いたのでしょうか。
 
 その後、今村は、次は紀伊半島が危ないと考え、私費を投じて観測所を十カ所設け、観測を続けました。しかし、太平洋戦争で資材が欠乏し、やむなく中止せざるをえなくなりました。
 
 昭和21年、今村の予想通り南海地震が起き、大きな被害が発生しました。今村の18年間の努力は水泡に帰したのです。

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今回の災害は“想定外だったのでしょうか??”

【参考】http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110508/plc11050812010006-n1.htm

明治から昭和初期の地震学の泰斗、今村恒明(明治3~昭和23年)の足跡を訪ねる.

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